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【同志社カレッジソングについて PDF:336KB】

【63号・全部・カレ・理事長最終回 PDF360KB】

【大磯講演敷衍要約 PDF:332KB】

 

<目次>
1.新・連載「カレッジソングについて」(上)
母校・同志社を知る手がかりの一つとしてカレッジソングの意味を知ることも有効なアプローチでしょう。又、歌詞の意味も明確に把握しないまま、会合の最後の歌として歌うだけでは同志社大卒として、いささか恥ずかしいものです。
幸い、日本語訳をされた児玉実英先生から情報をご提供いただきました。児玉先生は、アメリカ文学、比較文学者。同志社女子大学の学長も務められた名誉教授です。
(上)では、誕生の経緯、歌詞についての日本語訳、そして、英文学的コメントに触れ、奥深さを感じていただけるでしょう。

 

2.連載:水谷理事長ご講演記録「志の中で」から -最終回-

今回は最終回です。大切な内容が凝縮されています。
・なぜ、私立学校に固執したのか
・同志社大学を設立する所以の目的(「旨意」)は何であったのか
・新島はキリスト教的な人間理解に基づいて人を育てようとしましたがそれはどのような人物なのか、など、必読の内容です。

 

<本 文>
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1.連載「カレッジソングについて」(上)

 

これは2015年3月27日、東京新島研究会での児玉實英先生のご講演内容を多田が記録し、それに加筆・修正戴いたものです。

児玉 実英先生の略歴(こだま さねひで、児玉 實英)
1932年12月14日生。アメリカ文学、比較文学者。同志社女子大学名誉教授。
1955年に同志社大学英文学科卒、1956年に同大学院中退して、新島奨学金およびフルブライト奨学金を得てアーモスト大学に留学。1958年同英文科卒業。1959年ワシントン州立大学修士課程修了。
1960年同志社女子大学助手。その後、専任講師、助教授を歴任し、1970年に同大学教授。1984年「アメリカ詩と日本文化」により同志社大文学博士。1993年同志社女子大学長。2001年に広島女学院大学教授。2009年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。
<著 書>
『アメリカのジャポニズム -美術・工芸を超えた日本志向』中公新書, 1995
『石中火あり 同志社とわたしと英文学』オリオン出版社, 2000
『アメリカの詩』英宝社, 2005 など。


「同志社カレッジソングについて」 兒玉 實英

 

1.誕生の経過

 

1908年頃、同志社の学生たち -片桐哲ら- が宣教師からイエール大学のカレッジソングを教えてもらったとき、「自分たちの同志社にもカレッジソングが欲しい」と宣教師のギューリックに頼みました。
早速、ギューリックは他の宣教師と相談し、その頃、京都YMCA の建築のために近江八幡から週3日京都に来ていた若いヴォーリスさんに頼むことになりました。
ヴォーリスさんが以前から詩を創っていてアメリカの雑誌に投稿していたことを宣教師は知っていたのです。ヴォーリスは少しためらったのですが宣教師たちに「ヨイショ」され、引き受けることになりました。

 

2.歌詞について英文学的コメント

 

当時、同志社はまだ、いわゆる大学令による「大学」ではありませんでした。しかし、「カレッジ」は元々、テン語で「コレギウム」つまり「同じ志の者が集まる所」という意味でしたので、まさに「同志社」で皆が歌えるような歌詞を書いて下さったわけです。「カレッジソング」は「同志社校歌」と訳されていますが、これは正しい訳だと思います。ちなみに、「カレッジソング」は現在も全同志社で歌っています。

 

では、歌詞の解説に移りましょう。
“One purpose”これは目的語で、主語は “thy name”です。
“Doth”は、doの三人称単数の古風な形で、次の動詞を優雅に強調する言葉です。
“signify”これがその動詞です。「意味する」とか「指し示す」と言った意味です。
元々の根っこは、サインですが、交通標識のように「指し示すもの」と「指し示されるもの」との関係は一対一。ですから「一つの目的」を強めるために選ばれた動詞です。
“lofty”は、気高い、上品な、崇高な、という意味です。
「気高い目的」はone purposeをもう一度、類義語で言い改めて、強めています。大変力のこもった書き出しです。
この詩全体は、弱・強、弱・強の「アイアンビック」というリズムになっています。purposeは、言葉そのものが強・弱としか読めませんが、その前の弱のところに“One”を持ってきて、“One”を強くしか読めないようにし、わざとリズムを壊したのはOneを強調するためです。

 

第1行目で、同志社よ、と呼びかけます。そして、その名の示す一つの崇高な目的はなにか、はっきりと言います。即ち、
To train thy sons in heart and hand
To live for God and Native Land.
その学徒を精神的、身体的に、神のため、祖国のため、生きるよう導き、薫陶すること、です。
このように最初の4行で、同志社の目的をピシッと簡潔に言い表しています。

 

“Alma Mater”は、「母校」。ラテン語由来の英語です。
“sons of thine”は、あなたの息子たち。つまり、同志社の学徒たち。
1980年頃、男女平等の観点から可笑しいという人が出てきて、<世継ぎ> と言う意味のheirと言う言葉を使い、heirs of thine とすれば良い、という案が示されたことがありました。しかし、今は、元どうりの原詩のまま歌われています。複数形の“sons” には、比喩的に息子のような関係にある人たちのことを指す意味があるからです。ここでは同志社で学ぶすべての人たちのことです。

 

“Shall be as branches to the vine;”(ぶどうの枝のごとく、つながりゆくことであろう。)
ヨハネの福音書15章1~11節に出てくる言葉をふまえています。第5節には「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」と書かれています。
イエス・キリストと同じ樹液でつながっていれば、豊かな実を結ぶことができる、という比喩にもとづいた比喩的表現です。
なお、この詩には、聖書の言葉を借りて豊かに意味を膨らます「ビブリカル・アル-ジョン」があちこちに見られます。例えば、第4連の2行目 “oneness ofour Earth”もヨハネ17章11節へのアルージョ
ンでしょう。

 

この「これみな一つならんためなり」は、ヴォーリスさんが深く関わっていたYMCAのモットーでもあります。

この同志社カレッジソングの拙訳は、最初、同志社女子中学高等学校の野村芳雄先生の依頼で訳したものです。その後、少し手直ししました。一寸堅い目に訳しました。

 

3.この詩は誰が、誰に語っているのか?

ここで私が注目したいことが二つあります。
一つは、“We”です。これは勿論、主に同志社で学ぶ学生たちのことだと思います。学生だけでなく教職員も含めてもよいと思います。
しかし、この“We”は作者のヴォーリスではありません。確かに書いた人はヴォーリスです。しかし、彼は同志社で学んでいません。“We”はヴォーリスが創った「我々」なんです。厳密に言いますとヴォーリスとは別人なのです。しかし、ヴォーリスは、限りなく同志社に学ぶ人たち、つまり“We”に近寄って書こうとしている。ですからこれはとても熱い詩になっているのです。

 

もう一つ大事なのは、ここで語りかけられているはだれか、ということです。「汝」はだれか。それは同志社です。thou,とかthyとかthineで表されています。古風な敬意を込めた第二人称です。itやtheyではないのです。第三人称のitやtheyと我々の間には第三者的な冷ややかな距離がある。しかし、この詩では、我と汝の関係です。目線のあった、互いに向き合った関係なのです。だから熱のこもった詩になっているのです。

 

第三連に移りましょう。
3.When war clouds bring their dark alarms,
Ten thousand patriots rush to arms,
But we would through long years of peace
Our Country's name and fame increase.

 

ここのwouldですが、実に微妙な使い方をしています。この詩が書かれたのは日露戦争が終わった後で、司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、いけいけドンドンの時代。ハッキリと非戦論を唱えたくとも声を揃えて唱えることは大変難しい時勢でした。平和主義と現実との間の板挟みの苦しい作者の声がこのwouldから漏れ聞こえてきます。平和への強い意志を示すwillを使いたかったでしょうが、あえて悔しい思いをwouldと言う言葉に託して表したのでしょう。このwouldは、単なる「願いたい」という願望ではなく、困惑しきった予言者的祈りの言葉といった含みを感じさせます。
(つづく)

 

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2.連載:水谷理事長ご講演記録「志の中で」から -最終回-


(10).新島の教育姿勢とその背景

 

つまり、彼の「与へんと欲す」この教育姿勢の背景には、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章)という聖書の言葉を大切にした当時の会衆主義キリスト教の人々の中で育まれた人間理解があり、私立学校に固執したことの背景には、お上に頼らずに自分たちの手で自分たちの子弟を教育しようとする自治・自立の精神に富んだ会衆主義キリスト教の教育機関で学んだという新島の貴重な経験があるのです。それゆえに、この三者は表裏一体のもの、切っても切れない不可分の関係にあります。もっとも、新島の体験したアメリカとは全く異なる宗教的、精神的風土の中にあった当時の日本社会で同志社を設立し、展開させるには多くの困難がつきまといました。当時は松方デフレというのでしょうか。不景気のために、「賛成者あれども、寄付者なく、寄付金の約束あれども、納金なく」の状態でした。新島は篤志に頼らざるを得ない私立学校であるがために「経営辛苦を費やした」と語ります。しかも、その困難はとりわけ同志社の基礎となる徳育をキリスト教的人間観に求めたところにありました。同志社は基督教主義に基づくゆえに「荊棘の下に埋没した」のでした。しかし、会衆主義キリスト教の世界を体験した彼にとっては、困難であったにしても人を育てることの要諦、それを私立学校で行うという考えは放棄することのできないものであったのです。


(11) 新島が目指した人物

 

ただし、このキリスト教的人間観に基づく教育を、キリスト教信徒を増やす運動として新島は考えていたわけではありません。そのことについて「旨意」の翌年1889年に書かれた「同志社大学設立の大意」では、「吾人は敢えてその信仰の如何を問わず。仏者なり、儒者なり、神道家なり、又無宗旨家なり」、品行方正な人々を同志社は喜んで受け入れ、その力を発揮する人物に養成していきたいと語ります。そして、同志社で学んだ人々のうちで「或は政党に加入する者もあらん。或は農工商に従事する者もあらん。
或は宗教の為に働く者もあらん。或は学者となる者もあらん。官吏となる者もあらん。その成就する所の者は、千差万別」であるにしても「これらの人々は皆、一国の精神となり、元気となり、柱石となる所の人々にして、即ちこれらの人々を養成するは、実に同志社大学を設立する所以の目的」(「旨意」)であると述べるのです。

 

(12) キリスト教的な人間理解・最後に


新島はキリスト教的な人間理解に基づいて人を育てようとしました。キリスト教的な人間理解とは、人間のぬくもりを大切にし、信頼関係の中で生きる事です。同志社は私立学校としてこの建学の精神の中でさらにその教育の事業を発展させていかねばなりません。偏差値や公的資金獲得の多寡といったところでなされる画一的なランク付け、それらはもちろん教育と研究の質にかかわり、経営面にとっても重大な課題です。しかしこのような競争的環境の中にあっても同志社独自の個性を忘れることなく、建学の精神を振り返りつつ、社会に貢献、活躍する人物を育てていくことを目指さしていかねばならないのです。<おわり>

 

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< 講座の予告 >

 

同志社を理解するには、どうしても「キリスト教」を理解せねばならないでしょう。しかし、「キリスト教」を学ぶ機会も少なく、信頼できる先生に出くわすことも難しいのが現実です。
幸い、同志社大学の神学部の小原克博先生がその講義をインターネットで公開しておられます。それを同じ卒業生が集まって同志社大学東京オフィスで学ぼうというのが次の企画です。

 

主催:同志社ファンを増やす会
映像で学ぶ「同志社基礎講座」in TOKYO HUB

 

テーマ:『キリスト教の基礎』全三回
① 7月 7日(火)13:00-16:00
②7月14日(火)13:00-16:00
③7月21日(火)13:00-16:00

 

於、同志社東京オフィス
東京都中央区 京橋2丁目7番19号 03-6228-7260

 

・受講料:500円(会場費とレジュメ代)受講日にお納めください。

 

・申込み:予約不要 初日の7月7日(火)12:30受付にて。
但し、資料準備のため事前にeメール又はハガキでご連絡戴ければ幸いです。
ハガキ:〒279-0012浦安市入船6-2-503 同志社ファンを増やす会

 

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「学ぶとは、もの知りになることではなく
それによって自分が変わることである」

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