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NO.65 2015/07/01 発行  

 

発行:「同志社ファンを増やす会」
多田直彦:hgf02421@doshisha-u.net

 ・・・・・・・<「同志社ファンを増やす会」モットー>・・・・・・・

  新島襄と同志社をもっと知ろう
   学べば、同志社の良さが見え
  更に、母校に誇りと自信が持てる 

━━ <目次> ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

  1.<論文>5回連載

「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」

同志社大学名誉教授 井上勝也先生

        井上勝也先生(いのうえ かつや)の略歴
          1936年生まれ。同志社大学大学院文学研究科で教育人間学を研究。
          2004年退職。 同志社大学名誉教授。 
          主著:・『新島襄 人と思想』晃洋書房 1990年刊
          放送:・1991年「新島襄を語る」と題してNHKラジオで4回放送。
         ・1993年「新島襄の求道の生涯」と題してNHKテレビで放映。

・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・

*新企画ですね。井上先生の略歴は、本当に「略歴」ですね。確か、アーモスト大学に
留学もしておられたと思いますが。

**そうなのです。先生の履歴は、原稿を見ていただいたときにカットされました。
そういうところが井上先生らしいですが・・・。
実は、新島の恩人であるハーディー家の墓も見つけられたのは井上先生なのです。

*今回のタイトルを見て「なぜ、今、これを採り上げるの?」「なぜ、新島研究の
研究家がこれに取り組まれたのか?」と思いましたが・・。

**採り上げた理由は、論文の冒頭にあります。

*そもそも、この論文はどこに掲載されていたのでしょうか?

**この論文は『新島研究』第106号(2015年 同志社大学同志社社史資料センター)
に掲載されていたものです。関係者の許可を得て転載しています。
なお、井上勝也先生からは、つぎのお言葉をいただいています。
「同志社フアン・レポートの読者の皆様へ
半世紀近い新島研究の結果をお読み下されば幸いです。井上勝也 」

*「連載」となっていますが・・・何故でしょうか?

**この論文は『新島研究』で22頁もありますので、5回に分割することにしました

なお、『新島研究』の場合、論文の最後に出典がありますが、ここでは分割
していますので各頁に持ってきました。その記載は添付の論文に限ります。


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連載1.
「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」

同志社大学名誉教授 井上勝也

<はじめに>

今年(平成26年)は新島七五三太が元治元(1864)年6月(旧暦)箱館から密航を企て
て丁度150年目である。当論文は150年後の現在、新島が何故国禁を犯して密航を企てた
のかを考察することを目ざしている。

当時密航は幕府のご法度で、命懸けの重大な決断と実行で、捕まれば本人はもとより
親族にも類が及んだにもかかわらず新島は何故に密航を企てたのか。彼の密航は彼の
生き方、思想を理解する上でキーワードであると考える。

嘉永6(1853)年6月、蒸気軍艦を含む4隻のアメリカ軍艦が突如江戸湾入口の浦賀に
来航した。蒸気軍艦の来航が鎖国体制の我が国に与えた衝撃は誠に甚大であった。蒸気
力を艦船に応用することは、我が国が海によって守られているという既成の観念を吹き
飛ばした。爾来我が国は新しい歴史の時代に入った。激動と急変、硬直化した幕藩体制
に代わる新しい国家の青写真を求め、急速に近代化を推し進める時期が始まった。

天保14(1843)年に江戸で生まれ、明治23(1890)年47歳で亡くなった新島襄の生き
た時代はまさに日本の激動期であり、近代国家の形成の時期と重なる。彼はこのような
時代に何を考え、国禁を犯して密航を企てたのか。そして彼はアメリカへの密航の成果
を持ち帰って何を目ざそうとしたのかを考察することは、彼の本質に迫る大きな問題で
ある。

以下
Ⅰに、新島の密航までに海難事故でやむをえず海外に渡航し、鎖国下の我が国に貴
重な情報を提供して近代化に貢献した3人の漂流民を紹介する。そして、

Ⅱは、新島の密航に影響を及ぼしたと思われる時代背景を1)天保の改革、
2)アヘン戦争、3)ペリー艦隊の来航、4)ロシア艦隊対馬占拠事件を通して考察

Ⅲに、新島の生い立ちに見られ、密航につながると思われる諸問題を取り挙げ、

<おわりに>で新島が何故密航を企てたのかについて、先行研究者の解釈を紹介しつつ
、最後に私の解釈を述べたいと思う。

新島は天保14(1843)年、佐幕藩であった上州安中藩(3万石)の江戸詰下級武士で
ある新島民治の長男として、江戸神田小川町にあった安中藩邸内で生まれた。彼は七五
三(シメ)太(タ)と名付けられたので、当論文ではワイルド・ローヴァ―号のテイラー船
長からJoe と呼ばれるまで新島七五三太の名前を踏襲することとする。


Ⅰ 鎖国下に海外に渡航した人たち
―大黒屋光太夫、中浜万次郎、浜田彦蔵

江戸幕府が学術修行及び貿易のために海外渡航を許可したのは慶応2(1866)年4月で
ある。従って新島が密航を真剣に考えていた頃は未だ幕府の海外渡航の禁止が継続し、
渡航が露見すると本人は死罪を、そして家族も何らかの難が及ぶと信じられていた。
幕府は、17世紀にヨーロッパ勢力のアジア進出を危惧し、全人民を統制するために寛
永10(1633)年に鎖国し、日本船の海外渡航の禁止、海外在住の日本人の帰国の禁止、
貿易地の制限、ポルトガル人の追放を命じたが、これらの背景には全国に広がりつつあ
るキリスト教を禁止し、宣教師の国内潜入を防止することも理由の1つであった。
幕府の鎖国下で新島のように意図的に密航を企て、それに成功した人物は記録上はい
ない。しかし漂流によって偶然先進国に赴いた3人の代表的な人物を紹介しよう。

1)大黒屋光太夫(1751-1828)
大黒屋光太夫は伊勢国の船頭で、天明2(1782)年米を積んで江戸に向かう途中遠州
灘で暴風雨にあって漂流、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着、その後ロシアに
渡り、女帝エカテリーナ二世に謁見、寛政4(1792)年ロシア使節ラックスマンに伴わ
れて根室に帰って来た。大黒屋は漂流民として西欧社会に接触した最初の見聞を「北槎
聞(ホクサブン)略(リャク)」という名でまとめ、豊富な図を用いて風俗や言語など、ロ
シアに関する貴重な情報を幕府に提供した。

2)中浜万次郎(1827-98)
中浜万次郎は土佐の国の漁民で、14歳の彼が天保12(1841)年漁に出たところ暴風に
遭い、アメリカの捕鯨船に助けられ、ニューイングランドで学校教育を受けた。彼はア
メリカ船で嘉永4(1851)年琉球まで戻って来た。同6(1853)年には幕府の普請役格に
登用され、安政4(1857)年には軍艦教授所の教授方となった。この間に新島と接触して
いる。万延元(1860)年遣米使節の通訳として咸臨丸に乗り、太平洋上で大時化に遭っ
て、アメリカ海軍のブルック大尉と共に咸臨丸の難破を防いだ。明治2(1869)年、官
立の洋学校である開成学校の教授に任命され、英語を教えている。明治3(1870)年9月
、明治政府は近代戦争である普仏戦争(1870-71年)を実見するために大山巌や品川弥二
郎らをヨーロッパに派遣したが、中浜は通訳として同行している。

3)浜田彦蔵(1837-97)
浜田彦蔵も中浜と同じく漂流民であった。嘉永3(1850)年、彼の乗った船が遠州灘
で突風に遭い、難破してアメリカ船に救われ、滞米8年、日本人として最初にカトリッ
クの洗礼を受けてジョセフ・ヒコと改名し、アメリカへの帰化第1号になった。彼は安
政6(1859)年帰国し、神奈川の米国領事館付通訳として日米修好に貢献した。彼は横
浜で日本で最初の新聞「海外新聞」を発刊し、アメリカを始め外国情報を日本語で報道
した。また彼はリンカーン大統領直伝の民主政治を維新の志士木戸孝允や伊藤博文に伝
えた民主主義の先覚者であった。 北垣宗治教授の研究によれば、ジョセフ・ヒコと
新島の間に接点があり、フィリップス・アカデミー在学中の新島はヒコに父民治からの
申し出があれば、彼の手紙を横浜の宣教師に渡して、アメリカにいる自分に転送してほ
しいというものである。 

以上の3人に対して、アメリカに渡ってアメリカを自分の眼で夷情探索しようとした
人物に吉田松陰(1830-59)がいる。長門国萩藩士の彼はアメリカ東インド艦隊司令長
官ペリー(M. C. Perry, 1794-1858)が安政元(1854)年1月、再度江戸湾深く来航し
た折に下田港で金子重輔(変名)と二人で旗艦ポーハタン号に乗り込み、密航を執拗に
懇願したが丁重に拒否され、その後幕府に自首した。幕府との和親を望むペリー提督は
彼等に同情的で、「二人の頭をはねると云ふ最も厳重な刑罰を与えないことを望む」 
と彼の『日本遠征記』(四)に書いている。ペリーは、国禁を犯して海外で情報探索し
ようとする若者に好感をもっていたが、大統領の命令を体した彼はアメリカと日本の信
義を優先したのであろう。松陰は、開国することによって日本の生き残りを模索してい
た佐久間象山(1811-64)の勧めでアメリカへの密航を決断したのである。もし彼が密
航に成功しておれば、どのような思想の持主になって帰国したか大変興味がある。ちな
みに文久3(1863)年、薩英戦争を体験した薩摩藩が2年後の慶応元(1865)年、幕府の
許可を得ることなく、密航の形で藩の留学生、18歳の森有礼を含む合計15人をイギリス
に派遣することになった。藩は15人の中に攘夷で凝り固まった青年を入れている。彼に
近代国家を目の当たりにして攘夷が不可能であることを実感させるためであった。

当時の若者たちが尊皇攘夷を主張し、欧米列強を夷狄(野蛮な異民族)として日本か
ら排除しようとする狭隘な考え方に固執し、また一部は倒幕を目ざして過激な行動に走
る中で、新島の密航という大胆な行動を実行するまでの態度は冷静であり、沈着であっ
た。私は新島七五三太を研究する上でこのような新島に何が大胆な行動をとらせる要因
になったのかを知る必要があると考えている。(つづく)

<出典は、添付の資料に記載されていますので、参照下さい。>

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<ご案内> 新島襄の足跡を訪ねる旅/映像で学ぶ「同志社基礎講座」
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1.北垣宗治名誉教授とニューイングランドに新島襄の足跡を訪ねる旅
 
この度、北垣先生が標記の旅を下記の通り先生ご自身がご案内いただける
という旅が企画されています。
 このような機会は、滅多となく、最後かとも思われますので、ご参加をお勧めします

ご参加の方は折り返し、ご返事をお願いいたします。 多田 直彦
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 9月10日~17日の8日間、
*ボストンとその近郊、およびアーモストの、新島先生ゆかりの地を訪問する
*訪問先の予定は
ボストンの旧ハーディー家、旧アメリカン・ボード本部、旧海員ホームをはじめ、
アンドーヴァー(フィリップス・アカデミー、旧ヒドン家)、セーラム(ピーボディ
博物館)、チャタム(途中プリマスに立ち寄る。テイラー船長の旧実家)、
アーモスト(大学、旧シーリー邸、W. S. クラークの墓)を訪問。
*1日自由見学の日を設けます。
ボストン美術館や近郊のニュートン、リンカン(フリントの実家や墓)、
ド―チェスター(ベイカー夫人)、レキシントン(ハンコック教会)等を訪れること
ができます。

*ボランティアとして、私、北垣宗治が案内役を務めます。
*10年前に同様のツアーを計画して成功した、トップツアーという旅行社にお願いして
います。

*人数は30人を限度とし、6月末に締切りましたが、少しゆとりがあります。
*費用は31万円です。
                                                            北垣宗治
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

< 講座のお知らせ >                
    主催:同志社ファンを増やす会
                 映像で学ぶ「同志社基礎講座」in TOKYO HUB

      テーマ:『キリスト教の基礎』全三回

      ① 7月 7日(火)13:00-16:00
(1):運命を切り開く力ー脱出と解放の系譜
(2):愛とは何か

②7月14日(火)13:00-16:00
(3):キリスト教の歴史的展開──世界史の中で
(4):キリスト教の歴史的展開──日本史の中で
/野本真也・元同志社¬理事長に聞く

③7月21日(火)13:00-16:00
(5):キリスト教と文化
(6):21世紀における宗教の役割/本井康博元教授に聞く

*この授業は、神学部小原克博先生の正規のインターネット授業の
映像を見て、参加同士の情報交換しながら学びます。

 ・会 場:同志社東京オフィス
東京都中央区 京橋2丁目7番19号 03-6228-7260

・受講料:1回 500円(会場費とレジュメ代)受講日にお納めください。

・申込み:予約不要 当日の12:30受付にて。
但し、資料準備のため事前にeメール又はハガキでご連絡戴ければ幸いです。
問い合わせ先:〒279-0012浦安市入船6-2-503 同志社ファンを増やす会

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