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NO.67 2015/08/01 発行  
発行:「同志社ファンを増やす会」
多田直彦:hgf02421@doshisha-u.net

 ・・・・・・・<「同志社ファンを増やす会」モットー>・・・・・・・

  新島襄と同志社をもっと知ろう
   学べば、同志社の良さが見え,
  母校に誇りと自信が持て,フアンになる。
 

━━ <目次> ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

  1.<論文>5回連載 その3

「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」

同志社大学名誉教授 井上勝也先生

        井上勝也先生(いのうえ かつや)の略歴
          1936年生まれ。同志社大学大学院文学研究科で教育人間学を研究。
          2004年退職。 同志社大学名誉教授。 
          主著:・『新島襄 人と思想』晃洋書房 1990年刊
          放送:・1991年「新島襄を語る」と題してNHKラジオで4回放送。
         ・1993年「新島襄の求道の生涯」と題してNHKテレビで放映。

   2..<予告>
映像で学ぶ「同志社基礎講座」8.9月の案内です。

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「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」

同志社大学名誉教授 井上勝也先生

              <前号のあらすじは、後述しました。>

*この号の概要をお教えください。

**タイトルは「新島の生い立ちに見られ、密航につながると思われる諸問題」で
6つのトピックスから詳しく説かれています。

*その6つのトピックスを個別に概要をお教えください。

**1)ペリー艦隊来航についての印象や当時の状況を推察しています。
2)蘭学の学びを通じて
新島は、13歳の時に蘭学を学び始め、物理学と天文学の簡単な論文を読める
程度になっていました。ちなみに英学を始めるのは文久3(1863)年からです。
要は彼の関心が日本の外に向けられ、情報収集しようとしていたようです。

3)新島の学問への意欲について
新島は剣や槍や乗馬よりも学問への願望が強烈で、15歳の時、自ら
安中藩の家老の尾崎直紀に蘭学塾に行けるようにと哀願していいます。

4)外国軍艦と帆掛舟とを比べて
17歳の新島は、ある日、江戸湾の沖合にオランダ軍艦を発見。日本の帆掛舟と
比較し、戦艦を建造した外国人は日本人よりも知的で優れた国民であると
確信。又、我が国がなすべきことはまず海軍をつくること等を考えたようです。

5)軍艦教授所(後の軍艦操練所)での学び
万延元(1860)年11月、17歳の新島は築地の軍艦教授所(後の軍艦操練所)に
入学し、数学、航海学を週に3回、1年10ヵ月在学しています。軍艦教授所には
中浜万次郎も教授に加わって、測量、航海術等を教えていました。

6)「快風丸」で江戸と瀬戸内海の玉島を往復した体験により、太平洋という
大海原が青年新島の鬱屈を吹き飛ばし、飛躍的に視野を拡大させました。又、
海を辿れば外国へ行けることを示したこの航海は彼に新しい広い世界があること
を悟り、大海原は彼に未来への夢と冒険心をかきたて、直接感性に訴える教育に
なったのです。

*要約だけでもドキドキしてきますね。
**ぜひ、本文をお読み下さい。「上記文責:多田 直彦」

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連載 新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか(3)

同志社大学名誉教授 井 上 勝 也


Ⅲ 新島の生い立ちに見られ、密航につながると思われる諸問題

1)    新島のペリー艦隊来航の印象
新島が亡くなった翌年の明治24(1891)年に、彼の恩人ハーディー(Alpheus Hardy,
 
1815-87)の三男であるA. S. ハーディーによって編集された
Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, 1891 に興味のある記事が載っている
ので引用したい。

「まさしくその時」(1853年のこと)ペリー提督に率いられた有名なアメリカの艦隊が
突然日本の水域に現われた。それは我が国にものすごい動揺をひき起こした。
人々はアメリカ船の大砲の恐ろしい音にびっくりした。
しかし主な大名の大部分がアメリカ人に対して非常にせっかちにも戦闘開始の雄叫びを
あげ、幕府にすぐさま日本の水域から追い払うように主張した。
しかし我々には砦もなければ軍艦もなく、大砲もなく、戦うために訓練された兵士も
いなかった。
将軍の主な顧問たちは、日本の水域からアメリカ人を追い払おうと試みることが如何に
無益であるかをすぐさま悟った。
アメリカ人たちの目的が全く平和的(peaceful)であることを知っていたので、
貿易のためにいくつかの港を開くことに同意した」。

 これらの文章は1853年からかなりの年月を経て新島がアメリカ時代の記憶を辿って
書いたと思われるが、ペリーの来航が砲艦外交であり、peacefulであるという解釈は
歴史的事実に反するもので、彼のハーディーを意識した表現であり、アメリカサイドの
見方であるといえる。
いずれにしてもこの文章から彼が捉えたペリー艦隊の来航当時の我が国の状況を
推察することができる。

2)新島の蘭学修行

新島は安政3(1856)年、13歳の時、開明的な藩主板倉勝明に抜擢されて蘭学を
学び始めるが、教師の転勤で長続きしなかったものの、その後断続的に蘭学の勉強を
している。
Life and Lettersに「当時私は物理学と天文学についての簡単な論文を読めるぐらい
にオランダ語を読んでいた」 とある。
当時というのは彼の15,6歳の頃で、幕府は安政5(1858)年、米、英、仏、蘭、露の
国々と安政五ヵ国条約を結び、愈々開港して自由貿易を開始する頃である。
また怒涛の如く外国の情報や物品が流入し始める頃でもある。

ちなみに彼が英学を始めるのは文久3(1863)年からである。
オランダの影響が急速に小さくなり、逆にアメリカやイギリスの影響が急増する時期で
、新島の英学開始は時代的には遅いほうである。

彼は中国語を通して主に海外の情報を得ていたものを時代の推移とともにオランダ語や
英語に移行していった。
もっともこれらの外国語を通して欧米の新知見をどこまで得ることができたか疑問であ
る。
要は彼の関心が日本の外に向けられ、外国語を使って直接懸命に情報を収集していると
推察することができる。

3)新島の学問への渇望

新島は藩主板倉勝明の影響もあって少年期から武士に必要な剣や槍や乗馬の技術を
磨くよりも学問への願望が強烈であった。
彼は15歳の時(1858年)、安中藩の家老であり、幼少年期から可愛がられていた尾崎直
紀に宛てて、漢文で次のような手紙を送り、彼の心境を吐露している。
「日本騒動、紛然将有乱、若及乱敬幹不能学書、今不学恐失時、宜使敬幹入塾開矇目、
是僕之以赤心所願也」 
新島の意識の根底にはペリー艦隊の来航(1853,54年)と開国、クリミヤ戦争(1853‐
56年)、アロー戦争(1856‐60年)があり、日常的に起こる江戸市中の夜討ち、盗賊や
安政の地震(1854年)や津波、江戸の地震(1855年)といった天変地異があり、今にも
江戸に大きな騒乱が起こるのではないかと危惧していることがわかる。

彼はこのような非常時にこそ勉強に精を出したいが、藩の祐筆職補助の職務に縛られて
できないので、是非(蘭学)塾に行けるようにご高配願いたい、私の衷心からのお願い
です、と家老に哀願している。新島の真情が伝わってくる手紙である。

4)外国軍艦と帆掛舟との対比

万延元(1860)年、17歳の新島は軍艦教授所で教授から外国の蒸気船についての話を
聞いており、実物をみたいと思っていた。
或る日彼は江戸湾岸を歩いていて、沖合にオランダ軍艦が投錨しているのを発見した。
彼は威厳のある、海の女王と日本の不体裁な帆掛舟を比較して、堂々とした戦艦を
建造した外国人は日本人よりも知的で優れた国民であると確信した、 
とLife and Lettersで述べている。

引き続いてこの出来事が彼に我が国を革新しようとする野心を鼓舞する大きな実物教育
(object lesson)になったとも述べている。
新島は、我が国がなすべきことはまず海軍をつくることと、外国貿易を容易にする洋式
の船を造ることだともいう。
我が国は安政5(1858)年、米、蘭、露、英、仏の5ヵ国と修好通商条約を締結し、
箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港し、翌年6月、神奈川、長崎、箱館の三港で
自由貿易を許可した。
その結果貿易の方法を知らない我が国は怒涛のように入ってくる外国製品をコントロー
ルすることができず、我が国の銀貨の流出を阻止する方法を早急に学び、合せて自国の
防衛のために海軍を創設すべきであるという考え方は当時の良識ある若者たちの発想
でもあった。

5)軍艦教授所に入学(1860年11月~62年9月)

万延元(1860)年11月、17歳の新島は築地の軍艦教授所(後の軍艦操練所)に入学し
、数学、航海学を週に3回、1年10ヵ月(うち麻疹にかかって3ヶ月休学)在学した。
幕府は近代海軍の調練の必要性と緊急性から、オランダ政府に海軍教育班の派遣を
依頼し、安政2(1855)年長崎に海軍伝習所を開設した。諸藩から第1次伝習生約130人

参加を許された。 

幕府はまた安政4(1857)年第1次伝習生がオランダから献上された蒸気外輪船観光丸
(720トン)を操って江戸に着いたのを機会に、同年4月から江戸築地の講武所に
併設して軍艦教授所を開設し、幕臣に限らず大名の家臣にも門戸を開放した。
観光丸を操船してきた第1次伝習生の中から何人かが教授をつとめ、アメリカ通の
中浜万次郎も教授に加わって、測量、航海術等を教えている。

新島はワイルド・ローヴァー号の船上でテイラー船長と共に天測をおこなって
船の位置を割り出しているが、これは軍艦教授所時代に学んだ航海学の実習といえる。
新島の残した洋学研究ノートを調査した島尾永康教授は「残っているノートでは、
航海学とその基礎である球面三角法に関する計算が最も多く、具体例としては天測によ
る緯度計算が最も多い」 という。

万延元(1860)年1月に咸臨丸(625トン)が日米修好通商条約批准の随行艦として、
長崎の海軍伝習所の第1次伝習生や勝海舟や日本近海で難破したアメリカの測量船の
ブルック船長等が乗り込んで太平洋を横断してサンフランシスコに着き、同年5月に
浦賀に帰港した。

安政元(1854)年1月に来航した当時のペリーの旗艦ポーハタン号(2415トン)は
同条約の批准書交換のために、遣米使節の新見豊前守等を乗せてパナマ運河を経由して
大西洋に入り、首都ワシントンに向い、批准書を交換して一行は同年9月に帰国した。

咸臨丸には96人の、ポーハタン号には77人の日本人が乗っていたので、新島は軍艦教授
所に出入りする彼らから興味のある話―アメリカでは日本人使節が大歓迎されたことや
アメリカ人の親切さ、人間としての立派さ、日本人の夜郎自大さ、身分制、世襲制で
固められた日本と違って、ケンタッキーの山の中で育っても能力があれば大統領になれ
る実力本位のアメリカ、ガス灯の明るさやアイスクリームの美味さまでも―聞く機会が
あったであろう。 

6)洋式帆船快風丸に乗船

新島は文久2(1862)年11月から翌年1月までの70日間アメリカ製の洋式帆船快風丸
(180トン)に乗って江戸と瀬戸内海の玉島を往復した。
軍艦教授所で学んだ航海学の実習になった。彼は江戸にあって狭い藩の屋敷に住んで
いたが、桜田門外の変(1860年)、東禅寺襲撃事件(1861,62年)、生麦事件(1862年)
と攘夷派の反幕運動や外国人殺傷事件、百姓一揆などが全国的に頻発する中で、太平洋

いう大海原が青年新島の鬱屈を吹き飛ばし、飛躍的に視野を拡大させた。

海を辿れば外国へ行けることを示したこの航海は彼に新しい広い世界があることを
悟らせた。大海原は彼に未来への夢と冒険心をかきたて、直接感性に訴える教育になっ

といえる。(つづく)

注:論文は5回に分割してお届けします。
なお、『新島研究』の場合、論文の最後に出典がありますが、ここでは分割
していますので各頁に持ってきました。その記載は添付の論文に限ります。

●……………………………………………………………………………………●
<前号について> 「文責:多田 直彦」

* 前号はどのような内容でしたか?
** 新島七五三太が江戸に居た頃の時代背景が中心です。
従来、このころの説明は新島のことが中心で、何か物足りなかったのですが、
今回の内容は興味深いです。

* 確かに、時代背景を知ると状況が立体的になり、情景も目に浮かんできますね。
** ここでは、新島の密航に影響を及ぼした背景に限定して述べられています。
具体的には、天保の改革、 アヘン戦争、ペリー艦隊の来航、ロシア艦隊対馬占拠
事件です。

* そのころ、新島は何歳ぐらいでしたか?
** ペリーが最初に来航したのは、安政元年ですから、新島は満11歳で、
   二度目の来航、開国は安政5(1858)年ですから、新島15歳の時で、脱国したのが
21歳でした。

* 今ごろの若者とは、大違いですね。
** 新島は、国防の責を負う武士の卵として自覚から、我が国の現状を考え、
   第二のアヘン戦争に発展していかないか、外国に主権を奪われるのではないか、
   と危惧していたようです。

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2.主催:同志社ファンを増やす会
          映像で学ぶ「同志社基礎講座」のご案内

同志社大学神学部 小原克博教授によるインターネット授業
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当日、お支払い下さい。
申込みは不要ですが、資料準備の都合上、ご連絡いただければ幸いです。
ご連絡、お問い合わせは、多田直彦までお願いします。
メール:hgf02421@doshisha-u.net 電話・fax:047-390-7260

① 月曜日 コース
8/17(月)12:00~13:30 新島襄の略歴(1)なぜ、密出国したのか?
8/31(月)12:00~13:30 新島襄の略歴(2)晩年の関心事、遺言は?

② 火曜日コース 「キリスト教の基礎」連続6講座・3日間
終了しました

③ 木曜日コース
8/20(木)12:30~14:00 熊本バンドなぜ、同志社の源流の一つなのか?
9/03(木)12:30~14:00 アメリカン・ボード 資金と教師を提供した

④ 金曜日コース
8/28(金)11:30~13:00 新島襄の「教育思想」新島襄の教育ビジョン
9/25(金)11:30~13:00 新島襄の「宗教思想」キリスト教主義とは?
                                                          以上
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新島襄と同志社をもっと知ろう
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母校に誇りと自信が持て,フアンになる。

これが「同志社ファンを増やす会」モットーです
多田直彦
hgf02421@doshisha-u.net

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