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                                  №71 2015/10/01発行
                          発行:「同志社ファンを増やす会」
                       多田直彦:hgf02421@doshisha-u.net

 

 ・・・・・・・<「同志社ファンを増やす会」モットー>・・・・・・・

                              新島襄と同志社をもっと知ろう
                              学べば、同志社の良さが見え,
                        母校に誇りと自信が持て,フアンになる。

 

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<ボストンツアーの報告>

       新島を育てたニューイングランドでの「環境」と「人びと」

・はじめに

同志社大学名誉教授北垣宗治先生が企画され、案内された「新島襄の足跡を辿るボスト
ンツアー」に2015(平成27)年9月10日から8日間参加した。今回と似たコースのスタ
ディーツアーに7年前、本井康博先生と出かけたのでニューイングランドへの訪問は二
度目である。初回は「見物」で終わったので今回は狙いを明確にした。
 一つは高画質の写真を撮ること。それと新島がニューイングランドという地で何を
どう学び、どう成長していったのかを現地で感じ、探りたいと考えた。
そのため、北垣宗治先生からの「ぴるぐりむ」と題するツアーの事前学習情報や
『新島研究』や『同志社談叢』の関係する論文にもザッと目を通した。

 現地の北垣宗治先生はバスの中でのレクチャーされ、かつ現物を前にしての解説を
丁寧にされた。私は写真撮影の他、現地で見つけ確認できたこと、現地で感じたこと
を記録。従って,この報告も主観や推測も入ったエッセー風の報告であることをご了
解いただきたい。

第1部 ニューイングランドので「環境」

 人が育つのは、過ごした環境と影響を与えた人々が主なものと考えて居る。まずは「
環境」
から見ていく。

 1.ボストンという都市

 私は新島が到着した頃のボストンってどんな街だったのだろうか。また、新島は
ボストンの街を歩いて本屋さんにも出かけているが、そのとき何を見たがろうか、どん
なことを感じたのだろうか。亜米利加での初めての都市なので、初印象のインパクトは
大きいと思う。それらについて知りたいのだが新島による記録は残っていない。

しかし、別の人が書いたものなら、また、7年後の1872年の記録なら存在する。
「波士敦府ハ、「マッサッセッチュ」州ノ首府ニテ、(中略)其岡上ニ州ノ「カピトル
」(議政堂)ヲ建ツ、海浜ヨリ望メハ「ベーコン」街ノ岡阜ニ、其中央ノ円塔カ、烟甍
ノ上ヨリ突兀タルヲミル(後略)」この後は、丘の上に立てば、全市の風景が眺められ
る。丘にある公園には噴水や池や橋などの配置がたいへん美しい。と続く。

 この記録は岩倉使節団に同行した久米邦武が書いた『米欧回覧実記』とその現代語訳
(水澤周訳)から引いたものである。
 久米邦武も見たマサチューセッツ州の議事堂やハーディー氏が住んでいたビーコンヒ
ルの名前も出てきている。議事堂は新島も見ており、記録もある。私は新島が黄金に
光る球体の屋根に驚いたことも納得できた。
 久米の記録では、この頃のボストンで既に公園が作られており、都市としての整備が
進んでいたことが窺える。そのことは『米欧回覧実記』に添えられた「ボストンの繁華
街」という細密な銅版画でも確認できる。

 今回のツアーで我々は港のすぐ近くにレンガ造りの五階建てのビルや何年も前に建て
られた礼拝堂、そして、当時は木造であったがかなりの規模の元書店を確認した。
 このようなボストンの都市景観に新島は上陸したときに出くわしているはずである。
そのときの感想は残って居ないがアンドヴァーについては、父民治に報告している。
 1867(慶応3)年3月29日の手紙で「神学校、大学、学費の要らない小学校、女学校
病院、歩道のこと」などについて驚いている。
ましてや、最初の亜米利加、州都ボストンで驚いたことは十分推測できる。

 新島のアメリカでの第一歩がこのような都市に出会っていることを確認しておきたい
。何事も最初の出会いは印象深いもので、脳裏に残るものである。『連邦志略』などの
文字での情報と現物をこの目で見て、確認したことでは大差があるものだ。
私はこのツアーで新島の最初の「環境」ボストンの認識を変えねばならない思った。

 2.「ニューイングランド」について

アメリカでの新島の足跡を訪ねるときの定番の教科書は『ニューイングランドにおける
新島襄ゆかりの場所』井上勝也・北垣宗治共編(発行:学校法人同志社)であろう。
しかし、ときに「そのタイトルが理解できない」「なぜ、ニューイングランドなのか」
「そもそもどこにあるのか」「地図帳を見ても分からない」などと耳にする。

その答えは本の中にあるがニューイングランド(New England)は、アメリカ合衆国
の北東部の次の6州を統合した地域の呼び名である。
そこは、コネチカット州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ
州、メイン州、ロードアイランド州によって構成される。

・新島と関係あるのは、どの州だろうか?

 関係するほとんどがマサチューセッツ州である。その他は、新島が夏期を過ごした
ハーディーさんの山荘がメイン州にあり、「日本にキリスト教主義の学校を創りたい
」と演説したグレイス会衆派教会はバーモント州のラットランドにある。

私のニューイングランドのイメージは「新島が良質なキリスト教と出会ったところ」
である。それはフィリップスアカデミーでの生活の次の記述を覚えているからだ。
「アカデミーの生徒達は神学校のチャペルで行われる礼拝に出席することも義務であっ
た。」「極めて厳格なピューリタンであるテイラー校長は、毎朝の祈祷会が済んだ後、
トランプ遊び、喫煙、小説やダンスを禁じ、良い文学作品でも散漫な読み方をすること
を厳しく批判する演説をするのが日課であった。」

 また、ヒドゥン家で出会ったフリント夫妻の行動からもそのように感じた。
フリントについて手紙に「親切で敬神の念の深い隣人」と書いている。フリント夫人に
ついては「毎晩、新約聖書を私に説明して下さいます。」と書いている。

 このような人たちの原点を1620年11月にメイフラワー号でアメリカに渡ってきた
英国のピューリタン(清教徒)「ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)」に
求められることが多いようだ。信仰の自由を求めた清教徒を含む102人は、キリスト教
徒にとって理想的な社会をめざし、やがて子弟のための学校も創設しているのである。

 その頃のニーイングランドへの入植者は彼ら以外に大勢いて、各地で植民地を作り、
やがて州になっていくものもあった。ニーイングランドの各州は、古くて、面積も
小さいがそのことがその証であろう。但し、入植の目的は様々であった。

 新島がボストンに来たのは1865年でピルグリム・ファーザーズが上陸した1620年から
245年後のことである。
 200年もの間に、原住民との対立などもあり、また、目的の異なる入植者もいたにも
かかわらず、ピルグリム・ファーザーズの志を営々と伝え、繋いできている。
その証は、ハーディーやシーリー教授、テイラー校長、フリント夫妻等個人の中に着実
にピューリタニズムが浸透しており、宗教活動も海外に宣教師を派遣するアメリカン
ボードが実働し、実績も上げてきていることで言えるだろう。

 ニューイングランドという地方には、このような文化がいくつかの障害を乗り越えて
存続してきたといえるだろう。
 私は今回のツアーで、このようなニューイングランドの持つ歴史と文化の厚みのある
「環境」で新島が過ごしたことを確認したのである。

 < 次回の予告 >

第1部 ニューイングランドでの「環境」
  3.キリスト教
  4.会衆派

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