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第204回 井の頭公園散策と吉祥寺街歩き

第204回 井の頭公園散策と吉祥寺街歩き

 

日時:2023年2月21日(火)午前10時
集合場所:吉祥寺駅 井の頭線改札2F(JR線公園口)
案内人:成田(S52年工) サポーター:富山(S52法)・下田(S52法)
天気:快晴 参加人数34名

 

<コース>吉祥寺駅⇒井の頭自然文化園(外景)⇒万助橋⇒松本訓導碑⇒御殿山⇒お茶の水

⇒弁財天⇒永游亭⇒ひょうたん池⇒七井橋⇒七井橋通り⇒武蔵野公会堂
(一旦解散 昼食)
⇒サンロード⇒ペニーレーン⇒西三条通⇒平和通り⇒ハモニカ横丁⇒はなこ像 <解散>

 

予想を上回る参加者。集合場所は人通りも多く狭いので、井の頭公園付近まで移動して「点呼」を行うこととしました。
途中、淀橋浄水場までの水道道路として作られた井の頭通から、伊勢屋本店を眺め公園入り口に移動。

 

点呼後、案内人から概要説明。
大正6(1917)に日本最初の郊外型公園として開園した井の頭公園の中央に位置する井の頭池は、初めて江戸に引かれた水道「神田上水」の水源でした。その実現には、渋沢栄一が強力にバックアップ、皇室御料地だったこと土地についても、大正2年(1913)に下賜を受けました。
渋沢栄一はそれ以前、現在の井の頭自然文化園の場所にあった「井の頭学校」の設立運営にも尽力されていました。井の頭自然文化園には動物園以外にも絵画館(長崎平和祈念像の作者として有名な彫刻家北村西望の作品が多数展示されています。平和祈念像は彫刻園の住居を兼ねたアトリエで製作されたもので、その原型を鑑賞できる)など文化施設もあります。

 

吉祥寺は「住みたい街」のランンキングで常に上位と人気があります。商業地域と住宅街が近いこと、交通の便が良いこと、水と緑に溢れた井の頭公園が近いこと、その他、音楽(ジャズ・ロック・フォーク等)やサブカルチャー(漫画、アニメ等)に関連した施設も多いことなどが指摘されています。ハモニカ横丁に代表される吉祥寺駅周辺は、昔ながらの『こだわりの強い、独特の味わい・世界観をもった』ディープな部分もあります。

 

吉祥寺村、西久保村は江戸の都市範囲も広がりつつあった時代に、江戸本郷元町(現・文京区)の吉祥寺門前から、西久保村は江戸西久保(現・港区芝)から移転しています。両村とも江戸の大火(明暦3年(1657))により武家地の範囲がひろがったことによる移転処置でした。吉祥寺(お寺は)は本郷駒込に再建されましたが、門前の町人たちは江戸から雑草の茂る武蔵野への移転でした。計画的な移転であったため「幟」(旗)に似た短冊型の耕地が多いことから、吉祥寺駅北側の住宅地などにも面影が残っています。

 

松本訓導(戦前の日本の教育制度(旧制)における尋常小学校などの正規教員)碑:大正8年(1919)11月、麹町区永田小学校(現、千代田区)の児童500名が、13名の教師に引率されて井の頭公園へ遠足。休憩時1児童があやまって上水に転落。往時上水の水勢は深く激しかった。松本は児童を救おうとして着衣のまま跳びこみ殉職。33歳。一方児童の方は、途中の草につかまり近くの人に助けられた。この訓導のひたすらな行為は、世人の同情と感動を呼びました。

 

 

御殿山:武蔵野市御殿山という地名は、家光の鷹狩りのとき仮御殿が建てられたからといわれます。

 

お茶の水:鷹狩りに来た徳川家康が、関東随一の名水だと誉めて、お茶を入れるのに使ったとされています。

 

弁財天:井の頭弁財天の持ち寺は大盛寺。弁財天は仏教界の天部で性別はない。インドのバラモン教の女性神の宇賀神と習合し、水の神とみなされることもあります。

 

三代将軍家光の代になるとこのあたりは鷹狩り場とされ、寛永6年(1629)に家光が訪れた際に、この池の水は江戸の飲料水の源・上水の頭であることから「井の頭」と命名し、池のほとりのこぶしの木に小刀で井の頭と刻んだと伝えられています。

 

神田上水は墨田川以東には供給されず、「水屋」により供給されていました。このため日本橋界隈の商人達は井の頭の水源を大切に考え多くの寄進をした跡が残っています。

 

一同で弁天様をお参りして、「ボート池」、「お茶ノ水池」、「弁天池」、「ひょうたん池」周辺を散策しました。

 

 

途中の七井橋では、一羽だけいるオスのスワンボートを探しましたが、見つかりませんでした。

 

大正時代から井の頭池には4つのプールが設置されました。最後のひとつは昭和58年に廃止れるまで続きました。ここで水泳経験のある方の話では「水はきれいだったが、とにかく冷たかった」との事です。

 

一番東側の「ひょうたん池」を境にして、「井の頭池」は神田川となります。神田川は、善福寺川、妙正寺川と合流し、落合、早稲田付近、秋葉原付近を流れ、浅草橋の先で隅田川に流れ込みます。荒川水系の墨田川の水源のひとつであることから、井の頭の神田川も一級河川となっています。

 

 

昼食休憩後は、常に「住みたい街」ランキング上位に入る吉祥寺の街歩きです。

 

サンロード:全長300mのアーケード街。公募により「サンロード=太陽の道」となりました。太陽がサンサンと浴びられるよう、天井が開閉式で、素材にはテフロン膜が使用されています。

 

ペニーレーン:ビートルズの名曲のタイトルにもなった「ペニーレーン」という通りはリバプールにありますが、この小路もこの名前を使っています。JAZZ喫茶の老舗「SOMETIME」もあります。

 

ハモニカ横丁:戦後の闇市の名残り残るレトロとモダンが入り混じる地域です。細い路地の中に約100軒近くの商店・飲食店などが立ち並んでいます。ハモニカ横丁の名前は、武蔵野市に在住していた作家の亀井勝一郎氏が、小さな店舗が立ち並ぶ様を、楽器のハモニカの吹き口に例えたことに由来しています。このハモニカ横丁には5つの通りがあります。仲見世小路、中央小路、朝日小路、のれん小路、祥和会小路など。

 

小ざさ:当初昭和26年(1951)屋台の団子屋でした。現在の場所に移転し、団子をやめ、羊羹と最中の2品に絞って成功しました。(「一坪の奇跡」)

 

肉のサトウは、昭和48年(1973)に、青果店の内3坪に間借りして始めました。昭和50年(1975)に青果店全体を買取、現在の店舗となりました。名物のメンチカツは毎日長い行列ができます。

 

はな子像:はな子は1947年春頃にタイ王国で生まれた。元タイ国軍事顧問で実業家のソムアン・サラサスが、「戦争で傷ついた子どもたちの心をいやそう」と私財を投じて発起人となり、日本に贈られることとなりました。1954年3月5日、「はな子」は上野動物園から井の頭自然文化園に移されました。しかし、1956年6月14日の早朝、ゾウ舎に侵入した男性を死亡させる事故を起こし、さらに4年後の1960年にも飼育員を踏み殺す事故を起こしました。

 

2015年10月にはカナダのブロガーが「コンクリートの中、一頭だけで立ち尽くしている」とブログ上で発信、国際的な署名活動が行われ、45万人以上の署名が集まりました。
2016年5月26日、69年の生涯を終えました。

 

快晴のもと、歴史のある井の頭公園と人気のある吉祥寺を歩いた一部会員はその後ハモニカ横丁の方へ消えて行かれました。

(成田 記)