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第205回 玉川上水暗渠部を歩く

第205回 玉川上水暗渠部を歩く

 

実施日 :2023年(平成5年)3月29日(水)10時
集合場所:京王線 上北沢駅改札口を出て北口を上がったところ
案内人 :成田龍信 サポーター:冨山・下田 (ともに52年卒)
コース :上北沢駅⇒高井戸一里塚⇒玉川上水第二公園⇒③宗源寺⇒④荒玉水道 <昼食休憩>
     ⇒本覚院跡⇒永福寺町街⇒築地本願寺和田堀廟所⇒明大和泉キャンパス

     ⇒暗渠部跨線橋⇒和泉水圧調整所⇒井の頭通り道標⇒代田橋開渠部

     ⇒和田堀給配水所⇒代田橋駅<解散>
天気:快晴 参加人数:45名

 

玉川上水は、1653年(承応2年)に、羽村から四谷までの高低差92.3メートルの間に全長42.74キロメートルが築かれました。

 

1722年(享保7年)以降の新田開発によって、野火止用水や千川上水など多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献しました。

 

小平監視所より下流は、かつては多量の水が新宿区の淀橋浄水場まで送られていたものの、1965年(昭和40年)の同浄水場廃止とともに送水を停止しました。 その後長いあいだ“空堀”状態でありましたが、1986年(昭和61年)、都の策定した「清流復活事業」により水流が復活しました。この水は下水道処理水が利用されています。

 

浅間橋からしばらくの区間は、中央自動車道の下に隠れる形になり、同道建設時に暗渠化されています。流路は中央自動車道を離れ、暗渠の上を公園として整備された形態がしばらく続きます。

 

初参加の15名を含め予測を超える45名の参加者となり、集合場所では点呼もできず、玉川上水第二公園に移動してから、点呼、初参加会員のご挨拶を行いました。

 

 

玉川上水第二公園は、浅間橋から続く暗渠部上部の公園。上水路の上には盛り土がなされ上部は杉並区立公園となっています。遊歩道の両側にはたくさんの樹木が整備され、ソメイヨシノを始め、満開のお花見をしながらの歩く会となりました。

 

 

途中、高井戸の地名の由縁ともいわれる、叡昌山(えいしょうざん)宗源寺内の高井山の名前の刻まれた灯籠台や、「高井堂」の名を持っていた高井山本覚院の跡を見学しました。

 

 

玉川上水は少ない高低差を利用した水路なので、途中の荒玉水道などの場所で、「尾根道」のよくわかる地形を見ることができました。

 

昼食休憩後は、明暦の大火や、関東大震災などの後に、江戸・明治の都市計画整備に伴い郊外へ移転したお寺の集まる永福の寺町街を歩きました。

 

築地本願寺和田堀廟所はその中でも最大のものです。1923年(大正12年)の関東大震災で築地本願寺は壊滅的打撃を受けました。そんな折、陸軍省火薬庫跡地の払い下げ計画が出て、築地本願寺が出願することになりました。1930年(昭和5年)に築地本願寺に払い下げが決まり、1934年(昭和9年)に、正式に開所しました。

 

 

同様に払い下げられた明大和泉キャンパスの前には暗渠部が残りますが、昭和30年代までここには満々と上水が流れていました。

 

 

京王井の頭線明大前駅直前では、玉川上水が線路をまたぐ形になっており、地上に露出した巨大な鋼管を見ることができます。ここでは、東京山手急行電鉄計画の遺構を見ることができます。これはかつて東京外周に約 50 km にわたる環状路線を建設しようとした名残です。世界恐慌の影響で計画は頓挫しました。

 

 

東京都水道局和泉水圧調整所 – かつて、玉川上水と淀橋浄水場への新水路がここで分水されていました。

 

井の頭通り 道標。1924年(大正13年)、羽村村山線導水路、村山上貯水池、村山下貯水池堰堤の下半分(ともに現・村山貯水池、多摩湖)、境浄水場、境和田堀線送水管および導水路の一部とともに、和田堀浄水池として完成しました。このとき境浄水場とつなぐ直線の導水路を、後に補強し車両の通行ができるようにしたものが現在の井ノ頭通りです。

 

代田橋駅付近で、少しの区間だけ、暗渠部を流れてきた水路が開渠となり、見ることができます。

 

 

和田堀給配水所は現在改修工事中ですが、現在は東村山浄水場、境浄水場、三郷浄水場からの送水を世田谷区、渋谷区、目黒区、港区に配水しています。

 

天候にも恵まれ、お花見をしながらの、楽しい歩く会となりました。

<成田記>